〔1993年3月〕
「ママ、見て。雪」
2月2日、明け方から降り出した雪で、あたり一面真っ白である。
「今日は、電車でお参りしようか。駅まで歩けるかな」
「嬉しい。 判こ押してもらうわ。 長靴はいて行く」
子どもは、快晴の日でも長靴を履くのだが、 私は、七年ぶりにロングブーツを引っ張り出した。
まだ、雪はしんしんと降り続いている。 子どもは、珍しく私の手を取り、並んでゆっくり進んだ。 子どもに合わせて傘をさしていたのだが、知らぬ間にとんでもない位置まで下がっていて、子どもの顔や胸に、 雪がうっすら積もっている。
途中、たった一人婦人が、「頑張ってるね」と、子どもに声を掛けてくれたが、出会う人のほとんどが、「かわいそうに、こんな雪の日に」と、擦れ違い様に呟いていく。
「判に押してもらうの」
「先生、待ってくれているよ。 車でこれるかなって、心配してくれているよ」
「雪、食べてるの。ほら」 雪が子どもに直角に降るため、口を開いていると、自然に入ってくる。
「あ、本当だ。冷たいね」 寒さのためか口数は少なかったが、駅までの二十分間、親子の会話で心がぽかぽかだった。
駅に着くと、遅れている列車待ちの人で一杯だった。 子どもは、毎日車から見ているだけだった電車にやっと乗れて嬉しそうだった。
「ママ、 うんちした」
「教会まで、我慢して」
さすがに街の歩道は、ほうきで掃かれてあり、歩き易くはなっていたが、少し路地に入ると、すっぽりふんわり雪に覆われていて、雪はまだ降り積もる。
「帰りも電車にする。 それともバスに乗る?」
「えーと、バスにする」
「もう少しだからね」
「判に押してもらうわ」
お尻に重い物をぶら下げ、雪を踏み締め踏み締め歩いて、教会にたどり着いた。
「先生、こんにちは。 判に押して下さい」
この言葉には、「今日も元気でお参りできました。 ありがとうございます」という意味が込められているのだと思った。
雨の日でも、 雪の日でも、車で行かれなくても、 今日もこの通り元気でいられるお礼参りをさせてもらいたかった。 また、子どもの寒信行の日参表を、ここで一杯にしてあげたかった。
神様への子どものお礼の現れであるから。
「よう、雪の中、お参りできました。えらかったな」
「見て判押してもらった」
満足げに私に見せる。 子どものちんちんする手を代わる代わる両手で暖めた。
御祈念後、若先生親子が、 雪だるまを作って下さった。
「わあーい。 ゆきまるま。 すごいでしょ。 ゆきまるま」
『神参りをするのに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ』
(理解金光教祖御理解68)
もし、子どもがいなかったら、 雪の日の参拝をどうしていただろうか。
今まで、私が子どもを連れてお参りしていると思っていた。ところが雪の日の参拝で、私は子どもに連れられてお参りさせてもらっていたのだと気付いた。小さい子どもが大きく見えた。 教会へ連れていってくれて、ありがとう。
私達親子の日参表、2月2日の「冬の判こ」は、 忘れないであろう。