〔1993年6月〕
私が小学校に勤めている時、先生をお迎えして夏期研修があり、次のようなことを話されました。
「自分の考えは、はっきり持っていなければいけませんが、『○○だ』という断定ではなくて「○○だと思いますが、どう思われますか』という気持が必要です」 と。
この言葉を聞き、謙虚さも兼ね備えた立派な方だと思いました。
人間は、 財産ができたり、先生と呼ばれると頭を下げることを忘れます。
先生と呼ばれる方の中には、私が○○しました。いつも私が私がという方がいます。
そうかと思うと、表だってはされず、 して下さったのですかと尋ねると、させて頂きましたと言われ、若い者、未熟な人にも、間違っていたら教えて下さいと言われる方もいます。
自信も必要かと思いますが、絶対自分は正しいと思っていますと、人の話に耳を傾けられなく、間違っていても誰も教えてくれなくなります。 そして、 自分の意見も受け入れられなくなり、孤立していくでしょう。
自分は間違っていない、すべてまわりの人や物が悪いと責めてばかりいる人がいますが、本当にそうなのでしょうか。
自分は何も悪くないのでしょうか。
自分は仕事ができる。 自分は偉い。 自分が正しい。 自分はこれだけしている。 自分ほど苦しい者はない。自分ほど不幸な者はない。 私もこの中で思い当たることがありますが、 自分が正しい、自分がしているという気持ちが強いと、とんでもない落とし穴があるように思います。
何でも自分がしていると思うと、いろいろ不足が出てきて限りがない、相手を責める、腹を立て気分も悪い、ますます思う通りになりません。そういう考え方もあるのかと聞くゆとりと、私のここがいけなかったのか、こうした方がよかったのかと自分を顧みるゆとりが必要だと思います。
自分が一生懸命していますと、自分だけの力でしているかのように錯覚してしまうのですが、本当は自分だけではどうすることもできません。 いろんな方のお世話になり、そして神様が足らない所を足して下さりお手伝い下さっているのです。
「させて頂く」という気持ちですれば、何でも有り難く、楽しくできます。
『どうぞ、信心する者は、常平生、心にみきを供えて祈れい。 いっさいの願い事を成就さしてやると金光様が教えてくだされたが、信心する者は、これを忘れてはならぬぞ。 みきというのは、ありがたき、恐れ多き、もったいなきの三つのきぞ。 ご信心する者の心からこの三つのきが抜けたら、おかげは受けられぬぞ』
(理解Ⅲ尋求教語録135)
『勝手な欲をするな。 勝手なことをしてはいけない。 みな我欲なことをするから困ることになる』
(理解Ⅱ大西秀の伝え15)
『我情我欲を放れて真の道を知れよ』
(理解Ⅲ神訓2信心の心得11)
『慢心が大けがのもとなり』
(理解Ⅲ神訓2信心の心得23)
(理解皿金光教祖御理解45)
『世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、 身代ができたり、 先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。 よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をするな。 慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ』