小さな布教者3

小さな布教者3

〔1994年3月〕

ある日、管理人さんが「今日も教会へ行ってきたの」と声をかけて下さり、お忙しい中、子どものご祈念を聴いて下さった。

「ありがとう。何だか清々しい気持ちになったわ。また聴かせてね」

「どこへ行くの?」

「決まっているじゃないか。 教会だよ」

「気をつけてね」

社宅の子ども達の会話だ。

有り難いことに、社宅の皆さんも理解して下さっているようだ。

教会の近くに、商店街がある。 毎日パン屋でアイスクリームを買うことになっている。

2カ月くらい経ったある日、「毎日来て下さるけど、どこへ行かれてるの? 病院?」(誰でも、雨でも夕方になっても現れると、尋ねたくなるであろう)

「教会へ。 金光教ってこの近くにあるんです」

「そう、えらいわね。 毎日だものね」

それ以来、「今日も教会へ行ってきたの」が挨拶になった。

6月に入り、床屋へ行くと、おじさんに「教会へ行ってきたんだよ」と子どもから話しかけた。

近くに住んでおられながら、おじさんもおばさんも知らない様子だった。

「幼稚園の近くにある金光教の教会に行っているんです」

「今度から気をつけてみます」

11月、サトウサンペイさんの講演のちらしを、子どもと近所に配らせて頂く。

金光教を知らない方に知って頂けるようにというキャンペーンである。

決まった道しか通らない私達には、迷路遊びをしているようで、楽しみながらさせて頂く。 低い位置にあるポストには、全部子どもが入れた。

私はきちんと入れているのか、遠くから見ていた。 子どもは、投函後、四拍手し、お祈りを忘れなかった。

私は、連れて行った子どもに教えられ、残りを真心込めて配らせて頂いた。

途中、庭を掃く老人に会う。

独り暮らしで足も不自由そうにお見受けする。 講演には来て頂けそうにないなと思ったが、そんなことをこちらが決めることではない。

金光教を知って頂くことにある。 声をかけて渡させて頂こう。

子どもは「よろしかったら、見て下さい」 とちらしを手渡すと、「おじいちゃん喜んでたね。よかったね。いいことしたね」と飛び跳ねて戻ってきた。

きっとこの声は、老人にも聞こえただろう。

たった一言であるが、3人をとても幸せにしてくれた。

これらの出来事を教会の先生にさせて頂くと、「小さいのに布教してくれているのやな」と喜んで下さった。

社宅の方が、「物事を何でもよいようにとられると思ったら、やっぱり信心されてるからやね」と言って下さった。

いいように思って頂き有り難いと思うと同時に、日常生活の中で、いろんな場所でいろんな方を見ているが、私も他人に見られていると感じた。

「信心っていいな。 金光教っていいな」 と言ってもらえるような自分にならせて頂く生き方、信心をさせて頂きたい。

これは難しいことであるが、たった一言にも、ちょっとした行動にも、つまりは何事にも真心でさせて頂いていると、神様がよいように導いて下さる。

一人でも多くの方に、このお道の有り難さを伝えたい、知って頂きたいと願う私達である。

『生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ』

(理解Ⅲ金光教祖御理解37)

『信心する人は何事にも真心になれよ』

(理解Ⅲ神訓1道教えの大綱17)

『道は人が開け。おかげは神が授ける』

(理解Ⅱ小林財三郎13)
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