物の見方・受け止め方3

物の見方・受け止め方 3

〔1997年9月〕

私は、2才の子どもに振り回された生活を送っている。

彼は、朝、小学校に行く兄と共に午前6時半頃起きてくる。

「兄ちゃん、着替えて、 着替えて」

午前7時に「お父さん、起きて、起きて」。

忙しい中、言ってくれて有り難く思いながらも、分刻みの朝の生活の中で、子どもの相手をするのは大変だ。

彼は、兄が出掛けて1時間も経たないのに、「兄ちゃん遅いなぁ、 遅いなぁ」と。

午前中はとてもとても長い。

彼は、弟のためか、いつも誰かに構ってもらうことが当たり前になっている。

「お母さん、座って、座って」

横に座ると、「立って、立って」 ビデオをかけると、「踊って、踊って」

外に出ると、解き放された籠の鳥のごとく、走るのが速い。

ついていけないので、大声を出す。

「待ちなさい」 いったん止まって振り返るが、笑って走り出す。

公園で滑り台をすると、「も一回、も一回」

彼は、帰らない。

昼時なので、泣き叫ぶ子を抱いて帰ろうとすると、「助けて、助けて」と、バカデカイ声を出す。

臭い匂いがするので、「ウンチしたでしょ?」 と言うと、彼は、「知らん」と逃げ回る。

兄のスイミングを終え、急いで夕飯の用意をする時、彼は、「おかあさん、大好き、大好き」と抱き付いて放さない。(どうしたというの。 外に出たとき、こうだったらいいのに)

お気に入りのおもちゃがないと、 「クッパー知らん」 と、出てくるまで言っている。 彼は、こちらが狭い家の中を右往左往するのを、冷静に見て笑っているのだ。

「もう、こんな子知らん」

言ってはならない言葉だが、つい口に出してしまう時がある。

なぜ子どもが「知らん」という言葉を知っているのかと思えば、母親が使っているからだ。

不足心が一杯になっていた。

ところがこの昔話(七月号掲載の「わらしべ長者」で気付かせて頂くこととなる。 こんなにいっぱいお話ができるようになっていたのだ。

彼は、「ママ」より「マリオ」と言うのが早く、なかなか「ママ」と言ってもらえなかったが、いつの間にか、「お母さん」 と言えるようになった。

「お母さん大好き」なんて、誰が言ってくれるだろう。

「オハヨウ」 「コンニチハ」 「アリガトウ」 「イターキマス」 「スミマセン、ドーモ」 「オヤスミ」と自分から言える。

朝と寝る前に、一生懸命にお祈りをしている。

お祈りを忘れて布団に入ろうとする兄に、「兄ちゃん」と神棚の前に引っ張っていく。いっぱい褒めるところがある。

毎日元気に動き回ることができて、何よりも有り難いではないか。

このことを私に、神様は、「わらしべ長者』 によって、教えて下さったのだ。

これもあれもと不足を探すのではなく、こんなにもと有り難く喜ぶ心を見出していきたいものだと思う。

人生が幸せかどうかということは、その人の物の見方、受け止め方によって決まるのだと思う。

『おかげを受けられるか受けられないかは、わが心にある。 わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる』

(理解Ⅲ青山金右衛門の伝え3)
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