〔1992年1月〕
1歳半の子どもは、 ご祈念を始めますと、必ず私の側に来ます。
ある日、「いっしょに、お祈りしようか」と、声をかけましたが、台所へ行ってしまいました。
後を追いますと、流し台の上の棚に向かい、お祈りをしています。 この棚には、お社もありませんし、ご飯をお供えしてあるだけですが、子どもは、ここが神様のいる所、神様とお話しできる所だと分かっているようです。
小さい手を合わせ、拍手は、二つだったり、五つだったり、おじぎは、まるで鶏が餌をつついているよう。でも、いつになく真剣な表情で、一心に祈り続けています。
神様もお言葉をかけて下さっているような緊張感がありました。私の顔を見て、満足げに微笑みました。
翌日、「さあ、出かけるよ」と、声をかけますと、流し台の前へ行き、お祈りをした後、私を呼びました。
「ママ、 神様にお祈りするの忘れていたね」
このように、子どもに教えられることもしばしばあります。 最近では、お祈りをするのが嬉しいらしく、日に幾度も、 また、よその家の流し台の前でも、お祈りをしています。
自分を振り返りますと、生活のすべてにおいて、神様にお世話になっていながら、日に幾度手を合わせ、お礼、お祈りをしていたのか、本当に、神様に心を向けて生活しているのか、向けているつもりなのではないかと、反省させられます。
「神心」は生まれた時から、みんなの心に宿っています。
それを呼び覚ますには、「祈る」ことであり、神様への思いを、いつでも、どこでも、このまま素直に語りかけていくことだと思います。
神様に自分の心を向けませんと、「神心」も錆びついてしまいます。 神様に心が向くようになりますと、 我が心に宿る 「神心」 が生き生きと働いてきます。『わが心が神に向かうをもって信心と言うなり』
(理解Ⅰ 市村光五郎の伝え10)
今後は、 子どもと共に、 日常生活の一つ一つに「神心」を磨き、育てる稽古をさせて頂けるように努力したいと思います。