〔1992年6月〕
2歳になる息子は、教会が大好きである。
電車のおもちゃや積み木があるからなのだが、それにもまして、 「先生」が好きなのだ。
朝食が済むと、電車のおもちゃを持って、 「せんせい」 と言って、教会へ行こうとせがむのである。
この「せんせい」 という言葉も教会で覚えた。
掃除を済ませ、車に乗り込む。 エンジンをかけると拝んでくれる。 車が古いので、教会へ着くまでに何度か止まりそうになる。
その度、「金光様、 金光様」という母を見て拝んでくれる。
教会に着くと、また、拝んでくれる。
教会の扉を開けると、一目散におもちゃ目指して、駆けて行くのだが、その後、「せんせいせんせい」と親先生を捜す。
先生が入って来られ、 お結界へお座りになられると「せんせい」 (いてよかった)という笑顔になる。
最近、お結界の前へ座り、お礼が出来るようになった。
「昨日は、ご飯をたくさん食べることが出来ました。 ありがとうございます」
子供に代わり、親がお取次ぎさせて頂く。
「よかったな。 ようお参りできました」
「ここでは、何を話してもいいのよ」
「ん?」
しばらく考えて、 「パパ、チンチン、ずーっと」
「今日は、パパが電車で遠くに行かせて頂きました」と通訳がいるが、 先生とお話する。
金光教の「八つ波の紋」が「せんせい」だと思っているらしい。
教会の瓦や提灯・傘立にある「八つ波の紋」を見て拝んでいる。
家でも金光教の本、ご飯をお供えする器の「八つ波の紋」を見て拝む。
先日も、食事中拝み出した。 どうやら茶碗蒸しの中の物らしい。大人も食べている中にそれが花麩となるとであることに気付いた。
佐藤テル教話集に『神様を拝むのでも、 拝め拝めとうるさくいうよりも、一緒に来て拝みなさいと、連れて拝むようにすれば、それが習慣になるのです』とあります。
このことを経験させて頂きました。教会が好きになる。 先生を好きになる。このことは大切なことだと思います。
なぜなら、 それは、神様を好きになることに繋がるからです。 これは、 大人の方にも言えると思います。
息子は、 神様に、教会の先生方、信者さん達、家族に身守られ、日々成長させて頂いています。
これは、本当に有り難いことです。