〔1993年8月〕
子どもは、転んだり机に頭をぶつけたりした時、必ず私の所へ来てある言葉を催促した。
「痛いの痛いの飛んでいけ」ではない。 ある言葉とは「金光様金光様、 治して下さい」 この言葉を聞くと、安心して私から離れ、また遊び出すのだった。
2才になり、「金光様」という言葉を覚えてからは、合掌し自分で唱えるようになった。
ある日の夜、子どもは私を追いかけ、辺りが暗かったので敷居に置きコンクリートに頭をぶつけてしまった。
暫く泣くのを我慢していたが、「どうしたの」と慌てる親の声に涙が溢れ出した。すぐに寝かせ「金光様」と唱えると、子どもは一生懸命に額の上で合掌している。
父親が私に「しているぞ」と目で合図した。
「あ、お神酒さんだ」 教会の先生に、打ち身にはすぐお神酒をつけさせて頂くと治りが早いと教えて頂いたのだ。
ティッシュにお神酒を染み込ませ、額に貼り乾くまでそのままにしておくと、瘤もできずに治して頂いた。
また、走ることに夢中でじゅうたんに輝き、積み木の箱の角で額を打った時、泣きながら発した言葉は 「お神酒さん下さーい」だった。
子どもが2才半の時である。
「ママ、ここでいたたになったんだよ」
「そうか、ママどうしてこんな所にこんな物あるんだ、もう痛いなぁと怒っていなかった?」
「ううん。 僕、 金光様治して下さいってお祈りしてあげたんだよ」
「そうか」
この父と子の会話を耳にして思わず吹き出してしまった。
実は、棚で頭を打った瞬間、「どうしてこんな所にこんな物あるのよ、もう痛いなぁ」と発しようとしたが 「金光様、治して下さい」との子どもの声を聞き、その言葉を飲み込んだのだった。
「ママ、お神酒さんつけて。 金光様治してくれるよ」と大事そうにお神酒を抱え持ってきてくれた。
また、私が食べ過ぎで戻してしまい、腹痛で眠れぬ夜があった。 「金光様」としか頭に浮かばず、か細い声で唱え続けた。
その時、隣で眠っているはずの子どもが、 天地書附をずっと唱えてくれていただった。 私がそれに気付き、子どもの顔をみると、「痛い?金光様治してくれるから」と励ましてくれた。
祈ってくれる人がいる。
しかも私のすぐ近くにいてくれる。
有り難い、心強いと思った。
私は、何かあるとすぐお神酒やお洗米を頂くが、すぐといっても、 「あ、そうだ」と必ず一呼吸ある。
お神酒や神様の有り難さを分からせて頂いていくうちに、一呼吸の時間も早くなりつつあると思うが、 そして時には、痛さのあまり、物にあたってからお神酒を思い出すのだ。
ところが、子どもは思いだす間もなく、お神酒や金光様にお願いできる。
ここまで心の中に神様を頂いてくれているのかと思うと、本当に有り難く思う。 おかげをちゃんと知っているのだろう。
この気持ちを大切に育てさせて頂きたい。
私は、子どもが人のお役に立つ人に、他人のことが祈れる人になって頂けるようにと願っている。 そして、子どものことは親が頼み、親のことは子が頼み、 あいよかけよで願い合い頼み合いできる関係になれることを願っている。
これができると、親子、家族が一つになり、信心の継承にもつながっていく。
『家内中親切にし、信心をすれば、心がそろうようになり、 みなおかげを受けられるのである。 親子でも、心が一つにならねばおかげにならぬ』
(理解Ⅲ御理解拾遺18)
そのうち、子どもに「お母さん、痛いというかわりに金光様よ。 すぐお神酒さんつけて」と言われそうな気がする。
しっかりしなければいけない。