〔1994年1月〕
子どもが2才半になり、「取次唱詞」を覚えた頃、どこへ行っても真顔でお祈りをした。
ある日、病院の待合室で、患者さん(子どもにとってはお客さん)の方を向いてお祈りを始めた。
皆さんは何をするということもなく座って待っている方が多いので、注目してみて下さった。
子どもは、大勢の聴衆を前に、いつにも増して張り切って何度も繰り返すのだった。
暫くして、私のすぐ後ろの方(子どもにとっては一列目のお客さん)が話しかけてこられた。
「何かご信心されているのですか」
「ええ、 金光教を」
「知っています。 ○○町にありますね」
「金光教」と言われても、そんな宗教あったんですかと言われる方が多い中、この返答は意外で嬉しかった。
その方は、 「ありがとう。 また聞かせてね」 と言って診察室へ入られた。
家でも、遊ぶことより何よりもお祈りの時間が多い。 夕食後、子どもは座布団を並べ、大人は座らされる。
「若先生、今晩もしてくれるんですか」
子どもは台所からの替わりにしゃもじ、奉書の替わりに巻きすを持ってくる。
その様子は大祭の先生方そのまんまである。
そろりそろり。
半ズボンなのだが蹴るように歩く。きっと袴をつけているつもりなのだろう。
「一同拝礼」 大人は拝礼する。
先唱の後「次から一緒に言って」家は違う宗教なので知る由もないのだが、子どもに合わせてして下さる。
「また新しいこと覚えたんやな」
「初めは何を言っているのか、さっぱり分からんかったけど、毎日聴いていると、同じことちゃんと言ってるんやわ。ちょっとは言えるようになったわ」
「これで将来の就職先決まったな」
大人は子どものお祈りごっこに付き合っているつもりでいるが、本人は一部始終、 真剣である。
「一同拝礼」
子どもが一息ついた所で、「若先生、終わりましたか」この間、30分近くあるだろうか。
なかなか子どもにつき合うのも辛抱がいる。
毎日、子どもにつき合って頂き申し訳なく思う。
しかし、子どもを見て「神様を頂いているといいな。 お祈りをしてくれるおかげで、皆健康で仕事も都合よくいくわ」と言って下さり有り難く思う。
教会で先唱させて頂くようになると、教会から帰ってからも庭の燈籠に向かってご祈念を始めるのだった。
大きい声なので近くを通る人が立ち止まって聴いて下さる。
ある日、おじいさんが、 「何や言ってると思ったら、 祝詞あげてくれてるんやな。有り難いな。こんな小さいのに、しっかり言えて。 わしは、この子の祝詞を聞くのが楽しみや」 としみじみと言ってくれた。
おじいさんは帰られてから、 みかんとヤクルトを持って再び来られた。
「これ坊やにやってんか。 おじいちゃんの気持ちや」
大人から見れば、これもごっこの延長なのだが、何が周りで起きても動じないあまりの熱心さに、ついつい大人はこの子どもの世界に引っ張られるのであった。
『道は人が開け。おかげは神が授ける』
(理解Ⅱ小林財三郎13)